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(タイトル未入力)

# by kby54mh9 | 2025-02-27 15:46 | Comments(0)


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(この文章は2009年8月25日に、ThE hinduに掲載された記事である。マザーテレサの伝記を書いたNavin Chawla氏が、彼女の人生における不思議について語った。)


To loveone’s neighbor was to love God —

this was the key,

not the sizeof her mission

or the power others perceived in her.

「隣人を愛することは、神を愛することである。」・・

これが重要なポイントだ。

つまり、彼女に与えられた使命感の大きさでも、

他者が認める彼女に備わった特別な能力でもない

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マザーテレサは、Navin Chawla氏に対し以下のように話した。

「私達は成功することではなく、

忠実であることが求められている。」

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この世紀を通じて最も素晴らしい人間性をもった一人、

小柄な尼僧であるマザーテレサはとてもシンプルな人物である。

しかしその反面、複雑に謎めいた一面もあるという。


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「現代の経営手法で言うなら、彼女は成功のため独自に進化したモデルを、世界最高のビジネススクールに提示できる経営のカリスマ的指導者として言い表すことができる。四千人の尼僧とともに、1997年に亡くなるその時まで123ヶ国を巻き込んだ多国籍サービス企業を創造したからだ。しかし、彼女の素晴らしき人間性は、物質的な成果に基づいているのではなく、信仰によって育まれた精神に基づいているので、彼女はそのような説をはねつけた事であろう。

 つまりそれは、コンピュータの銀行、大勢の会計士、官僚などを全く必要としなかった。彼女の行うべき正しい道とは、貧しい人々や疎外された人たちに対する『全面的な無料サービス』というユニークな誓いに基づいていたからである。」


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Navin Chawla氏は、伝記作家として彼女の人生に対し、簡単には答えられない謎があるという。


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(一つ目の不思議)


マザーテレサが学問的な条件としてはどうみても

資格などなかったし、

大学で学ぶこともなかった。

彼女の勉学の大部分が聖書に限定されていたのにも関わらず、

貧しい子供たちを街の荒れ果てた生活から解放するために、

数百の学校を設立したのである。

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彼女は食事をする施設(スープキッチン)を開き、ホームレスのために最悪の事態から保護する仕組みを提供た。そして、修道女たちが見つけた、街に放置された幼児のためのShishu Bhawans「聖なる子供の家」を始め、死が間近に迫った人のための施設をつくったのである。彼らは一人で死んでいくことはなかった。これらの施設のすべてが、世界の貧しい地域にあったわけではない。例えば、当時、孤独と絶望をもたらすハンセン病などの施設の多くは、豊かな西側の国だけにあったのである。


(二つ目の不思議)


彼女がインドに来たこと自体にある。


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1910年にマケドニア共和国の首都であるスコピエで生まれ、当時のアルバニア共和国にある小さな町に移ったアグネス(マザーテレサの本名)は、3人兄弟の末っ子で、激しいカトリックの信者である母親により、倹約を重んずる家庭環境で育てられた。


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アグネスは、まだ少女だった頃、遠くのインド北東部ベンガルで働いていたユーゴスラビア・イエズス会の牧師の話に刺激を受けたという。14歳頃、彼女は母親に教会の門徒になりインドで働きたいと言った。18歳で、既に彼女は自分の生き方を持っていた。そして、彼女が母親に別れを告げると、再び母の元へ帰ってくることはなかったのだ。


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Navin Chawlaは語る。

「まず、1928年の東欧の立場からコルカタを想像してみよう。アルバニアからインドへの旅がどんなものなのか、ほとんど想像つかないだろう。当時の宣教師は家に帰ったことなんてなかったので、インドは全く未知の世界だったはずである。全く知らない言葉、習慣、伝統を持つ土地へ行くという不確実な未来の為に、彼女のしっかりと結びついた家族から離れる事は、少なくとも愚かな選択であったはずだ。しかし若いアグネスが、後にこの決定について疑問を感じたという記録はない。」


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彼女はインドに行く唯一の道は、コルカタに本部を置く尼僧の養成所であるLoretoロレット修道会を通すことである事を知っていた。しかし実際は、アイルランドの修道会を中心にルートを敷いている。クロアチアのザグレブから列車で旅し、アイルランドの首都ダブリンへ船で行った。そして彼女は、6週間で知らない言葉ではあったがインドで必要とされるという英語を少しだけ学んだ。ムンバイへ向かう彼女の船旅は、違う人種の人々や祖国と違う気候に初めてさらされていた。そして遂に、19291月の朝コルカタのハウラ駅に着いた時、18歳の彼女は大きなステップを踏み出したのである。彼女は自分の決意を疑う余地など全くなかったという。


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マザーテレサはNavin Chawlaに言った。

「以前も言ったけれど、私がEntally(コルカタの中心にある町)にあるロレット修道院から離れるよりも、母親の家を出る時の方が悲しみは小さかった。

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(三つ目の不思議)


修道院からスラム街に出ていったことである。

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ロレットの修道女としての20年間は、彼女は先生と校長先生から秩序と規律をみにつけさせられた。 最も単純な意味で、彼女の人生は学校の鐘の響きによって規制されていたわけだ。修道院には、秩序と治安が守られていた。しかし大変なこともあった。たとえば、修道院の中の病棟は孤児と貧しい親から生まれた子供がいたからだ。驚いたことに、彼女はベンガル語を容易に話すことができたのだ。

彼女は、休みなどなかったけれど仕事をすることに幸せを感じていた。教室から見た世界は、スラムと貧困で成り立っていた。それは、現実の世界であり、彼女の使命がそこにあるということを、ゆっくりと感じることができた。


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彼女は修道院からスラム街に出るという、ほとんど不可能な行為を健全なる誓いを立てて試みた。それは、教会のカトリック修道女としては今までになかったことである。これは、教会の厳格な枠組みにおいて、想像もつかなかったものであった。ロレット修道会の総会長は彼女の試みに同意した。しかし、カルカッタの大司教は許可しなかった。

人生の分岐点ともいえる中、彼女は信仰を深めていった。祈りをささげるために心を静かにして修養することによってジレンマと向き合い、そして目的を達成するまで試み続けていたという。

2年後、驚く事ではないが、バチカン(ローマ・カトリック教会本部)はこの種の最初の例外を作った

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(四つ目の不思議)


修道院からスラム街にでていった彼女の初期段階で行った事。


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彼女が1948年にコルカタの街で最初に披露した事は、不思議な光景ではなかったのだろうか。

例えば、彼女が町や村の預言者が着ていたような安いサリー(白と青のサリー)と、荒い革のサンダルに身を包んでいた事だ。これは、ヨーロッパ人にとって慣れ親しんだ西洋の習慣ではなかった。つまり彼女自身は尼僧であるが、外見からでは彼女が尼僧であるとは誰も判断できない。


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また、彼女は一人だった。手伝ってくれる人も仲間もなく、とりたてて言うほどのお金も持っていなかった。彼女は、長い年月を修道院の中で教える仕事をしていたけれど、外の町の様子などは何も知らなかった。修道院中の生活は豪華ではなかったが、安全は確保されていた。外へ出た彼女は、究極の屈辱、つまり乞うということを悟ったのだ。


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彼女自身が書いた唯一の日記の中に、信仰と修道院の壁の中にある安全が確保された場所に戻りたいという誘惑と葛藤していたということが書いてあった。

時には涙を流し、ロレット(修道院)に戻りたいという狭間のなかで、彼女が毎朝見たスラム街の路上で最初の学校を設立した。 そこには、教室はもとより、テーブル、椅子、そして黒板すらなかった。彼女は棒を拾い、学校を一度も見たことがない好奇心旺盛な子供たちの前で、地面にベンガルの言葉の文字を書き始めたのだ。


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すると二、三日で、ポンコツの家具が届いた。誰かが、黒板とチョークを寄付してくれた。修道院からボランティアとして教えるために教師が来る。マイティリー語(インド・ヨーロッパ語族、インド語派に属する言語 ベンガルで使われる言語)の小さな学校は現実のものとなった。

Entallyに、間もなく学校ができた。小規模な診療所もでき、そこには、薬剤師からお願いしてもらった数種類の基本的な薬も揃った。

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ベンガル語を話すことによって、テレサは多くのことができることを発見した。そして、彼女の他の人に疑惑を抱かせないという魅力と率直な人柄は、周りの人々に彼女を助けたいとう気持ちにさせた。


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彼女を初めて賞賛した人たちは、あの有名なBidhan Chandra Roy西ベンガル州の2番目の知事)の家族だった。

後に、同じく有名なJyoti Basu(西ベンガル州の6番目の知事)が彼女に力を貸した。

 最後まで、彼女は誰かと話をする時はいつでも、例外なく相手の事を「私の友人」と言った。そうしている間に、カルカッタ政権が彼女の活動に協力し始めた。



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彼女の名前は、コルカタの外でも知られるようになった。インド政府が、Padma Shri (インド共和国における国民栄誉賞のようなもの)を彼女に送ることになった。彼女は授与式に事もなげにトラックで到着し、それが多くの人に感動を与えた。

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Navin Chawlaは語る。

「ヒンドゥー教徒としては(ある種の折衷主義を身に着けていたけれど)、マザーテレサが大衆や彼女が気を配っている人々と共に、意識ある時間をキリストと一緒に過ごしている事を理解するのに時間がかかった。それは、彼女の十字架の上のキリストでも、ケアルガートのホスピスで死んでいった人の事でもなかった。

彼女が繰り返し言っている、『自分の隣人に手を差し伸べなければならない』という言葉に矛盾はなかった。」

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マザーテレサにとって、隣人を愛することは神を愛することである。

 これは、彼女とって極めて重要なことだった。つまり、彼女の使命感の大きさでも、他者が認める彼女に備わった特別な能力という事でもない。

彼女はNavin Chawlaに簡単ではあるが重要なことを話した。

「私たちに求められていることは成功することではなくて、忠実であることだ。」

マザーテレサは、人生を通して、祈り、愛、奉仕、そして平和の信仰を実証したのだ。

(NavinChawla is the Chief Election Commissioner of India and the biographer of MotherTeresa.)


# by kby54mh9 | 2023-07-15 15:51 | English | Comments(0)

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Those days T. Nager had only two doctors.One, Chari in Agasthiyar Kovil Street, another Chari in Usman Road.

ティナガーには二人の医師がいた。一人は、アガシアーコビル通り、もう一人はウスマン通りである。

They took care of the health of the T. Nagarresidents.

彼らは、ティーナガーの住民の健康管理をしていた。

There was a Municipal Corporation doctortoo.

市営病院の医者もいた。

Show him the wound in any part of the body,he would smear the part with a violet lotion.

体のどの部分にある傷であっても医者に診せた。そして彼は紫色のローションを体のどの部分であっても塗った。

The wound would heal, but the violet wouldn’tdisappear in any tearing hurry!

傷はやがて癒された。しかし、塗られたローションの紫色はすぐには消えることはなかった。

T. Nager had an absurd reputation as theland of cine stars.

ティナガーには、映画スターの住む場所というばかげた評判がある。

To my knowledge there were only threestars.

私の知る限りでは、3人だけいるけれど。

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T.R. Rajakumari’s house was located at theKodambakkam boundary.

ラジャクマリの家はコダンバッカムとの境界線にある。

The houses of N.S. Krishnan and Pushpavalliwere near the Teynampet boundary.

クリシュナンとプシュパバリはティナンペットとの境界線あたりにある。

The only cinema house was RajakumariTheatre.

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映画館は、ラジャクマリシアターが一軒だけあった。

Initially, only Hindi films were screened.

初めは、ヒンディー語の映画が上演されていた。

Then, Tamil films followed.

それから、タミル語も上演されるようになり、

Later they screened English and Telugumovies too and eventually the theater vanished.

その後、英語やテルグ語の映画もまた上演されるようになり、遂に映画館は姿を消した。

But, for many years the bus stop therecontinued to bear the Rajakumari name.

しかし、何年もの間、バスの停留所の名前がラジュクマリとして残っていた。

During the rule of the Dravidian parties,it came to be known as ‘Powerhouse’.

ドラヴィダ党の支配下では、そこは発電所として知られるようになった。

Now, even those sans teeth, may notremember Rajakumari.

今半、何もかもなくなってしまい、ラジュクマリの名前すら覚えていないのかも知れない。



# by kby54mh9 | 2019-09-07 17:39 | 日本語 | Comments(0)

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Even then, Nalli Store was in business.

既にその頃、ナリストアーは営業を開始していた。

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Three jewelry stores: T.B jewelry,Ramanathan Store and Ramachandra Iyer Store.

そして、3軒の宝石屋、TBジュエリー、ラマナザンストアー、そして、ラマチャンドライアーストアーである。

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One had to go to the market behind PondyBazaar to by vegetables.

野菜を買うためには、ポンディバザーの裏のマーケットに行くか、

Otherwise, we had to cross the railwaytrack and go to West Mambalam.

さもなければ、線路を渡って、西マンバラムまで行かなければならなかった。

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Even those days, the present Madley Roadand Doraiswamy Road linked West Manbalam with T.Nager.

この頃、西マンバラムとTナガーを結ぶマドレイロードとドライスワミーロードが繋がった。

Railway gates separated the two parts.

踏切が二つの場所を分断していたのだ。

The gates were firmly in place.

踏切はとても頑丈にできていた。

Once closed, no one could ever manage tosmuggle through any little opening and cross the railway track.

一度締まると、誰もどんな小さなすき間を通り抜けて線路を渡ることなどできなかった。

In the 1960s, the railway installedcantilever “gates”.

1960年代に、片持ちのゲイトを取り付けた。

Since then, at least two lives were lost eachmonth at these level crossings.

その後、この踏切で少なくとも月に二つの命が失われることになる。

Those with well-honed imagination could seeghosts there.

このことは、研ぎ澄まされた想像力がこの辺りで幽霊を見ることにつながる。

“Koo…chikku chikkuu…” they would bechanting like kids and playing rail-games.

「クー・・・チクチク」それらの幽霊は、子供たちのように歌いながら、電車のゲームをやっている。


# by kby54mh9 | 2019-09-07 15:14 | 日本語 | Comments(0)

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Siva-Vishnu temple was like a villagetemple.

シバーヴィシュヌ寺院は、村の寺院のようであった。

T. Nagar bus stand was right opposite.

ティーナガーのバスの停留所は、反対右側にあった。

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That is, the buses with route numbers 9,10, 11, 11A, 12 and 13 were parked along the rode in front of the temple.

ルートナンバー9,10,11,11A,12そして13は寺院の正面の道路に沿って停車していた。

We would take the buses only to places notserviced by the electric trains.

電車が通ってないところでは、バスが唯一の交通手段だった。

Rail fares were cheaper.

電車の運賃はバスより安かった。

Travel time shorter.

それなのに目的地までの時間は短くて済んだ。

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Only three shops in Ranganathan Street:Kumbakonam Utensils Store, Kalyan Stores and a betel leaf-areca nut shopabutting house number 9.

ランガナザン通りには、たった三軒の店しかなかった。クンバコナムウテンシルスストアー、カラヤンストアー、そしてハウスナンバー9に面しているナッツショップ バテルリーフアルカである。

If we heard the sound of the train whileentering Ranganathan Street, we would be able to run and catch the train.

たぶん、ランガナザン通りを通過する列車の音が聞こえたら、私たちは走ってその列車に飛び乗ることができただろう。

No obstructions in the street.

道路には見晴らしを遮るものは何もなかったからだ。

The foot overbridged right near the ticketcounter.

陸橋の直ぐ右側に切符売り場があった。

It now takes a minimum of ten minutes tonegotiate Ranganathan Street.

ランガナザン通りを乗り越えるのに少なくとも10分かかる。

Ten to thirty minutes to buy a ticket.

切符を買うのに10分から30分はかかる。

Ten more minutes to reach the foot overbridgedafter crossing some ten shops and a footpath Pillayar temple.

寺院の回廊とその周辺の店10店舗ほどをくぐり抜けて、陸橋にたどり着くには10分ほど余計にかかる。

Then, there was a huge pond in the placepresently used as a bus depot.

そして、そこには大きな池があった。今では、バスの駐留所として使われているが。

It was said that the pond had tortoisestoo.

その池には、陸亀も住んでいたと言われている。

I had seen many buffaloes.

沢山の水牛も見た。

There were occasional public meetings therewhen the pond was dry.

池が干上がってしまった時は、そこで演説会も開かれていた。

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It was there I had heard speech by Rajaji,Anna, Chengalvarayan, Ma.Po.Si, Muthramalinga Thevar and Chinna Annamalai.

数々のタミルナドゥ州の有名な政治家たちも演説を行ったのを聞いたことがある。

Around 1960, Swamy Chinmayananda conducteda Gita Yagna and delivered lectures for twenty-one days.

“Oh! What great English!” Some wereastonished.

その講義を聞いて、「なんと素晴らしい英語だろう。」幾人かの聴衆は驚き感心した。

“Oh! What great English!” Some wereembarrassed too.

「なんと素晴らしい英語だろう。」幾人かの聴衆は戸惑っていた。


# by kby54mh9 | 2019-08-31 17:25 | 日本語 | Comments(0)